2007年7月7日土曜日

殿守(天守)発祥の楽田城址


続いて、楽田城址を訪れてみました。楽田城址は、現楽田小学校にあります。





大きな地図で見る






楽田城址について、「楽田村史」(425頁)では次のように記述しています。

「楽田城址は字裏之門にあり。今日に至る土居の一部及び濠の一部を残存し、当時の楽田小学校の敷地に全部を充当す。」



現在、楽田城址の石碑は、小学校の西門にひっそりとたたずんでいます。







かつては、城山と呼ばれていた土盛が楽田小学校校庭内にあり、子どもたちの格好の遊び場になっていました。そこに楽田城址の石碑がありました。





運動場が手狭になり拡張した結果、城山が運動場中央に位置したため、昭和54年9月に城山が取り除かれ、楽田城址の石碑が現在の場所へ移設されました。





楽田城は、天守の起源となる構築物がもっとも早く資料に記された城の一つです。

「楽田村史」(425頁)に元禄16年(1703年)小瀬甫庵が残した「遺老物語」について次の一節があります。「永禄元年(1558年)春、尾州楽田の城主その城中に高二間余に壇をつき、其上に二階の矢倉をたて八幡宮、愛宕権現を祭りて敵を防ぎたるにより、諸方にも聞き及びて、之れをつくり信長にいたりて甚大になりし事、江州安土の殿守其濫觴(らんしょう 物の始まりの意)と云々と見ゆ」とあり、「殿守(天守)」について述べられています。具体的には、「五間、七間の櫓を造り真中に八畳敷の二階座敷」があったとされています。

さらに古く、「天守」のことが書かれている文献があります。「細川両家記」という書物によると、永正17年(1520年)1月10日、細川但馬守と野間豊前守の二人が伊丹城で城内の「天守」で切腹したという記述が残されています。

しかし、その構造が文献に記載された城としては、楽田城が最も古いもので、城郭史を語る上で欠かせない存在と言われています。また、すでに無くなってしまいましたが、冒頭で記載した土盛(城山)が「遺老物語」の「城中に高二間余に壇をつき」の記述と一致しています。



そのほか、楽田城の遺構としては、通称「横町」と呼ばれる地区に楽田城の「北之門」址を示す新旧の石碑が建っています。





場所は、犬山市字横町132番地にある「神明社」向かいにあり、その北西には「北之門」の地名が残っています。






2007.07.07 の犬山遊歩 (上から順に)

大縣神社にある楽田村道路元標  (別ウィンドウ)
殿守(天守)発祥の楽田城址
本宮山は標石の宝箱  (別ウィンドウ)